◆お風呂五十年史◆
其の一「銭湯の時代(2)」
■もらい湯に銭湯通い...お風呂にみんなが集まる
都市部では、お風呂のある住宅は少数で、銭湯通いが一般的、内風呂はむしろ農漁村に多く見られました。
例えば東京近郊では、宅地になる前の農地に、まずは銭湯が建てられ、その周辺に住宅が立ち並ぶという光景もありました。
銭湯は、このように人々が暮す環境を作る宅地開発の核のひとつとして、とても重要な存在であったといえます。
また、この頃には、近所のお風呂のある家で入浴する「もらい湯」という習慣がありました。
銭湯通いにしても、もらい湯にしても、毎日入浴するなど、夢のような話でした。
内風呂がある場合には、風呂桶は、手工業的な木製浴槽が主でした。
昭和の初期頃から出始めた銅または鋳物の風呂釜で、薪や石炭をくべてお風呂を沸かしていました。
水をくんだり。
お湯を沸かしたりということは、大変な作業だったので、お湯を減らさないように気をつけながら入浴していました。
昭和20年代後半には、より便利で清潔な住宅を目指す運動が盛んになり、タイル貼りの浴槽も作られましたが、ごくわずかのものでした。
タイルといっても、現在のようにバリエーションはなく、白を中心にパステル調のものがわずかにあった程度でしたが、丈夫で衛生的という理由で喜ばれました。
また、高級浴槽としては、陶製のものがありました。
文化的価値の高い建造物を貴重な文化遺産として次代に継承するために、移築・復元・保存・展示をしている「江戸東京たてもの園<東京都江戸東京博物館分館>」。
東京の銭湯を代表する建物として、東京都足立区にあった昭和4年築の「子宝湯」が復元されています。
当時のものを忠実に再現しており、昭和初期の銭湯の雰囲気がそのまま残されています。
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