お風呂五十年史


其の一「銭湯の時代(4)」

日本人はお風呂好き

 銭湯は、江戸時代から憩いの場、交流の場として、町人文化の中で発展してきました。

町人はもとより、下級武士も利用し、湯(最初は蒸し風呂から始まって、その後湯を使う風呂になった)を使うだけではなく、茶を飲んだり、囲碁・将棋を楽しんだりする座敷があったりしました。

石鹸のない時代でしたので、あずきや大豆の粉に香料を加えた洗い粉や、ぬか袋が使われました。

また、軽石や朴炭(ほおずみ)を、足の裏や爪をみがくために使っていました。



浴衣と風呂敷

 現在も私たちが使っている浴衣と風呂敷は、風呂文化の中から生まれたといってよいでしょう。

将軍家などでは、湯上がりに体を拭うのに浴衣を何枚も着替えたといわれていますが、庶民の間では、それが入浴後の着物になり、やがて夏の外出着として着るようになっていきました。

ちなみに、銭湯で現在のように裸に手ぬぐいで入浴するようになったのは、江戸中期以降で、それまでは、男は下帯、女は湯もじをつけて風呂に入りました。

この湯もじや湯具を包んだり、床に敷いて身仕舞いするのに使ったのが風呂敷です。



庶民のお風呂のはじまり

日本人にとって、お湯につかるという習慣は、かなり古くからのものでした。

時代と共に姿を変えてきたお風呂。

ここでは、昔ながらのお風呂を2つ紹介します。



<五衛門風呂>
鎌倉時代には、浴槽の下から直接お湯を沸かす、じか焚き方式のお風呂がすでにありました。

これが「五衛門風呂」の祖形です。

五衛門風呂は、じか焚き方式の小型のもので、枯木、落葉、紙屑などなんでも焚け、早く湧くことから、一般家庭用に多く用いられました。

このお風呂には蓋がなく、入浴の時に足で下に押し込む円形のすのこ式のものを、上に浮かせて、蓋の代わりにしていました。

この板は「ゲス板」と呼ばれていました。



<子持風呂>
江戸時代には、浴槽の外側に別の湯沸釜が付いていて、釜と浴槽とを2つのパイプで連結し、釜の湯が沸くと自動的に湯が浴槽に循環するというお風呂が登場しました。

これが「子持風呂」と呼ばれる外釜式の桶風呂で、現代の風呂釜の原点ともいえます。

明治時代に発明された巴式の風呂釜も、この子持風呂の一種です。

出典/斉藤秀雄「風呂の歴史」

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