湯煙コラム


■山咲千里
「チビ丸、泣くもぉ」


山咲千里

あれはほんとうにすごい泣き声だった。

となり街から散歩で通りかかったヒトからも「ちいさな子供の泣き声がしますが、どうかなさいました?」と玄関のドアを叩かれるほどだった。

母親はまだ裸で弟の髪を洗っている。


こんなときお風呂場から飛び出して行けるのは当時5歳のわたしだけだ。


「なんでもありません、って言っておいで」

シャンプーを嫌がる弟のじたばたを洗い場が狭いせいで洗面器を片手に格闘する母は、鬼のような形相である。

正直これがなんでもないなんて私は見ず知らずのヒトに言えたものではないと思ったものである。


「うちのお風呂場は狭いよ、父さん」

その夜、母は湯上がりの頬をさらにジンフィズで桃色に浮かび上がらせて、お風呂の改築を声高に要求した。


「狭い風呂場っていうのは、家族が仲良く暮らすにはいいもんだ」

テレビのボクシング中継に顔を向けたまま返事をする父親は、たまに早く帰るとわたしたち姉弟をお風呂に入れてくれた。

「髪を洗う順番はクイズに答えられたヒトからだぞ」と父は、死ぬほど簡単なクイズを出して、たいていそれに答えられた弟のほうの髪を洗いにかかった。

泡でマッシュルームみたいに大きな頭になった弟は、これからまさにそのシャンプーの泡をお湯で流されると予感し表情がこわばる。

「さぁ、目をつぶれ!鼻から息を吐け!サンダーバード3号が出動するぞぉ」と父が励ますがむなしく、チビ丸は今日も張り裂けんばかりに泣きだした。


ビえーんっ!

と、そのときわたしのすぐ横でお風呂場の壁の小さなタイルがぽとりとはがれ落ちるではないか。

「おとうさん、うちのお風呂、壊れてきてる・・・」

弟の泣き声のせいではなく、このところいろんな箇所に不都合が生じているのをわたしは指差した。

老朽化したお風呂場は排水口の流れも悪く、流したお湯が逆流していた。




そして父は立ち上がった。


「いいな、うちは明日から銭湯通いだ」


それからどのくらいの期間だったのか、家にはお風呂の改築のための職人さんがやってきた。

わたしたち家族は近所の銭湯へまるで旅行にでも行くように嬉々として通った。


銭湯でお兄さん友達が出来た弟は、その子が髪を洗う間にも泣かないので自分もそうなっていったようだった。

母は娘のわたしと女湯へ入ると、隣の男湯の父と弟に向かって壁越しに「お父さぁん、もう行くよおっ」と大声で合図した。

この声の大きさも尋常ではなかった。

大声の家系は弟に受け継がれたけれど。



さて改築されたお風呂は、さほど広くもならず、でも排水溝はばっちり大きくなって、お湯はきれいな渦を巻いて流れてくれた。

そしてその渦を眺めながら 湯船に浸かればなぜか微笑んでしまう一家であった。

(文:山咲千里)

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