湯煙コラム


■岡田美里
「私のお風呂遍歴」


岡田美里

思えば「我が家のおフロ」も数えるといくつ目かしら?昭和36年、私がオギャーと生まれた年に浸かった産湯から、 40年の間に入った数々の「我が家」のお風呂。

思い出してみると、これがなかなか面白い。

オンナが人生に入るお風呂の数は、確実に男性よりも多い気がするこのごろ...。

だって実家のお風呂、ひとり暮らしのお風呂、嫁ぎ先のお風呂、ほらもう3つも数えちゃった。

引っ越ししていたらその分だけ増えるでしょ、私みたいにシングルに戻ればもうひとつ余計に増えるし、いったい「我が家」って、今までいくつあったのかしら。


昭和36年、私はE.H.エリックの次女として、東京オリンピックを3年後に控えた神宮外苑に生まれました。

入ったお風呂はタイル貼りの、しゃがめば大人がひとりでギリギリかな、という小さな浴槽。

横にはガスの炎が奥に見える、お風呂の1/4 ほどもある大きな湯沸かし器がありましたっけ。

父はその浴槽に水を張り、買ってきたばかりのモーターボートのエンジンを取り付けると、思いきり始運転。

ブロロロロロッという大音響とともにタイルは剥がれ落ち、母の悲鳴の中、無惨な姿で浴槽の人生は終わりました。


小学校4年の時に南青山に引っ越し。

この「我が家」は当時、広い南青山に3軒しかなかったマンションのうちの1軒でした。

周りはまだまだ木造家屋が軒を連ね、セントラルヒーティングという言葉に誰もが憧れた高度成長期の東京にあって、ここのマンションに設置されていたお風呂は洒落た暮らしを証明するかのような洋風のバスタブ。

今でいうユニットバスの奔りでした。

級友がお泊まりに来ると、『奥様は魔女』や『パパはなんでも知っている』といった「アメリカのドラマに出てくるお風呂みたーい」とうっとりとしていましたっけ。


大学4年の秋から私は妹とふたり暮らし...。

白金のワンルームには、リフォームしたばかりのお風呂場がついていたのに、私たちは何故かわざわざ近所のお風呂屋さん通い。

人恋しかったのかな。

帰りにドイツパンのお店に寄ってくるのが習慣になっていました。


それから代官山、広尾、駒沢、用賀と引っ越しながら私は独身時代を謳歌し、のちに娘たちの父親となる堺正章と最初に一緒に住んだのが三田のマンションでした。

ここは建築家の丹下健三氏の手による高級マンションで、お風呂場というよりバスルームは寝室、いえメインベッドルームの中にあり、大きな鏡の前には洗面所がふたつ並ぶという、さすがにバブル時代を象徴する豪華版でした。


娘たちが成長したのは渋谷の一戸建て。

堺が70年代に建てた家のお風呂場には、彼が「さらば恋人」でヒットを飛ばしたおかげで輸入ものの大きめの「寝て入る」式のバスタブがついていました。

涙したのは、娘たちを連れて家出をした時。

とりあえず、のつもりで借りたマンションのお風呂場を覗いた長女が、「ママすごい、ここのおフロ、しゃがんで入れるねー」リッチな暮らしに見切りをつけ、バツイチの質素な暮らしを選択した私についてきてくれた娘たちは、生まれて初めての「普通のお風呂」にエラク感動してくれたのでした。

どこまでも明るく「いいねー、狭いお風呂は。

ママがすぐそこにいるんだもん」と、くったくない笑顔を見せてくれて、感謝しましたっけ。


これからも、私はまだまだいくつもの「我が家のおフロ」を探していくのでしょう。

ボヘミアンな暮らしも、ま、いっか。

娘たちみたいに、どんな場所のどんなお風呂でも、笑顔で感動する気持ちでポワーンと暖まってこれからも明るく強く生きていきたいなあ。

(文:岡田美里)

>>湯煙コラム トップ

湯の国Webトップ(mobile)
湯の国Webトップ(PC)

(c)Yunokuni Web